宮崎の死刑判決に関して

http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2006/01/post_1c33.html

人間の行為は裁けても、心の中までは、誰も裁けないのだ。
であるならば、動機の詮索なんかは最初から止めて、ただその者が成した行為の軽重において淡々と罪を決定すればいいのではないだろうか。

ちょうど今週のモーニング連載「刑事が一匹…」で
『欲しいのはお前の懺悔だ!』
との台詞がありましたが、遺族や社会が一番求めているものはそれですよね。


法には抑止力だけではなくて更正の力も兼ねて欲しいと思うし、動機の部分に踏み込まなくては更生は無い。裁判に置いて動機を云々するとしたらそこに主眼があるのではないか。兼ねていなくても、更正をつかさどる機関と密接な連携を保たざるを得ないし、裁判中だからと言ってその間におざなりにする訳にもいかないだろう。
心の中を云々するのが文学だけでは、ちょっと。
事務的な面で判決が遅れるデメリットはあるのでしょうが、別部署として分けるのはまだしも、行政のシステムから動機を分離してしまうのは本質からずれると思います。


池田小事件の宅間守も何の反省もなく逝ってしまった訳ですが、この死刑執行が宅間の希望を叶えるものという見方に自分も賛成です。
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021022223 (BNN)
宮崎は韜晦したまま死んでいくのでしょうかね。それとも刑の間際に現実を認識したりするのでしょうか。おそらく公表されることもないのでしょうが。



追記:16:25
こう言った凶悪犯罪の動機のことを単純に考えるなら「やってみたかったから」で基本的にはまとまると思う。
宅間なら富裕層に復讐したかったから。宮崎なら幼女にイタズラしたかったからとか世間を騒がせたかったから。最近あった母親に毒物を飲ませた娘なら実験したかったからとか崇拝する犯罪者に近付きたかったから。もちろん全部末尾には?が付く。
ただ普通の人間だったら社会性や情、あるいは計算などで幾重にもブレーキが掛かるところが壊れているのか計算ミスしたのか掛からない。
よくよく考えて見れば確かに動機そのものより、なぜブレーキが掛からなかったのか、その内の少なくとも一つを今後正常に修正できるのかに注力した方が現実的かもしれない。
宅間は他人をマイナスにしたところで己がプラスになる訳では無いってとこを誤解したまま逝った様だし。



うん、最初書いたのと論旨がだいぶ変わってしまった。
16:25より前に読んだ人はすいません。ご容赦下さい。もう少し書き直すと思います。